佐土原城入城から沖田畷の戦いへ|島津家久の実像の講座受講 第三回目

2019-07-17

島津家久講座
島津家久講座

こんにちは、つい先週に宮崎市の広報誌を眺めていたら、『佐土原城主「島津家久」の実像』講座が2019年8月11日(日)にあるとか発見しました。うーむ、午前中は囲碁の試合があるがなんとか行きたいなぁとググってみたところ・・・・・な、な、な、なんと、すでに5月からの5回シリーズとのこと、しかも、講師が新名一仁先生!!!!しかも2019年7月14日(日)に第3回がありもうすぐや!と、至急電話予約した日本史入門者のヨネですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

中書家久上京日記

ちょっとアンテナの張り方が弱かったようです(笑)全5回のうち3回に行けそうなので、まぁ結果オーライと考えてます。しかしながら、前回の「中書家久上京日記を読む」を聞けなかったのが残念すぎました(涙)

去年、上井覚兼日記講座(講師:新名一仁先生)で「中書家久上京日記」の紹介があったか、家久を調べてでてきたか何かで、旅の工程を地図とスケジュールをまとめた資料を確認して島根県浜田に一週間近く立ち寄っているから当時から浜田は漁港が活発だったのかなぁとか、京都かどこかで信長が行軍しているを見たような記述があったとか、いつか日記を読んでみたいなと思ったものでした。講座聞けなかったのは残念ですが、また後日に日記は論文か何かを調べてみたいと思います。

講座(佐土原城入城直前くらいから)

ということで、先日講座へ行ってきました!行ってみると、上井覚兼日記講座よりも多い人数でびっくりポン。やっぱ島津性が効いているのでしょうか!?いや新名先生の知名度がアップしているのではないでしょうか!!

今回の講座は天正3年(1575年)頃、家久が帰国したあたりから、島原半島の有馬氏へヘルプに向かったり、肥後に侵攻が決まったりした天正12年(1585年)の前半あたりまでの10年弱の間の島津家久を中心とした戦国島津氏の動きについてでした。

講座感想

ということで、10年くらいを90分で駆け足で説明を聞いていきましたが、去年の上井覚兼日記講座である程度下地ができていたので、今回はすんなり頭に入り、講談師の講談を聞いているような感じで物語として頭に入ってきて、楽しいひとときになりました。

まぁ、宮崎県人として講座に登場する九州各地の地名がすんなりわかるので、各地の位置関係や距離感がわかり、より一層楽しく講座を聞けました。

次回は、沖田畷の戦いあたりがでてくるようで楽しみですね。ちょっと近々大分に行く必要があるので、大友宗麟が築城したとかいう臼杵城(丹生島城)を攻めたいなと思案中のヨネでした(*^_^*) アディオス(^_^)/~

個人的なメモ

  • 高原城攻めで、天正4年8月19日に島津四兄弟(義久、忠平、歳久、家久)が一緒に布陣していて珍しいとか。
  • 高原城で籠城している家臣?運命共同体?仲間?を伊東勢が助けを出さず、信用が失墜し次々周辺の城が陥落?明渡し?降伏?していった。
  • 開城の時に、お互い人質を出し合う慣習を初めて知った。しかも、人質の指名とかするようだ。まるでプロ野球のトレードだ。初心者としては、開城させたつまり勝利側の島津氏が人質を出す感覚がはじめ理解できなかったが、おそらく(個人の予想)等価トレードではなく、島津勢の人質のほうが伊東勢の人質より格下なのではないだろうか。で、約束?契約?開城条件?を担保するために、勝利側の島津勢も人質を出すのだろう。現代の「手付流れの倍返し」では、手付を受け取った側は、相手方の契約破棄によるの損失を「手付流れ」で担保されるが、手付を払った側は、相手方の契約破棄による損失を「倍返し」は民法により日本政府の信用で担保されるが、当時はだれも担保してくれないだろうね。
  • 伊藤義祐が日向から撤退していくなかで、島津氏へ寝返った内山城(高岡城、天ヶ城のようだ)の野村文綱のお墓が天ヶ城の脇にあるとのこと。
  • 大友宗麟は日向侵攻の直前に洗礼を受けたようだ。神父さんとか、夫人ジュリア(側室?)をつれて務志賀(延岡市無鹿)に本営。なにそれ余裕で島津氏に勝つ予定だったんだろうねと思った。確かに、キリスト教の国を日向に創ろうとした説は十分考えられるのかも。
  • 高城合戦について、当時の小丸川の流れを考慮した布陣図の考察の紹介が面白かったし、参考になった。確かに近代になり治水になり河川のうねりを結構まっすぐにしてるもんね。
  • 高城合戦(耳川合戦・耳川の戦い)での家久の活躍により、義久から感状(今でいう感謝状?)を家久がうける。天正6年11月13日。数少ない義久から家久への書状のようだ。その書状の写し?は残っているが、原本が行方不明という。存在は知られていて、原本行方不明という感覚が入門者にとっては不思議だったが、最近なんとなくなぜそうなるかわかってきた。
  • 家久が佐土原拝領、ということで、天正7年3月3日に家久が佐土原入城した説(?)で、新名先生の3月3日に佐土原でお祭り開催案が面白かった。お祭りするなら是非乗っかると楽しそう。
  • 日向国内の諸将、ほとんどは島津勢本体から上井覚兼をはじめ各地に地頭が配置されたようだ。
  • 「領主・国衆」と「地頭」の違いはめちゃ重要そう。初めてイメージ的に理解できた。宮崎地頭の上井覚兼は、島津家本体(太守島津義久)の直轄領となり、地頭は配置替え(転勤イメージ?)がある位置付け。官僚みたいなものか?家久が佐土原領主になったが、領主・国衆はその地域を所有していて、島津家本体からは間接的に統治された位置付けのようだ。したがって、島津家本体から上井覚兼には命令が出て絶対服従(実際は命令通りしてなさそうだが・・・)。しかし、島津家本体から家久へは命令というより依頼や指示が出て、家久は断ったりできるようだ。
  • 高城合戦で大友氏が敗北してから、肥後の国衆が一部島津氏へなんちゃらの願いがでる(国衆が配下になる用語がわからんw)。その後、島津氏が肥後進出開始。同じころ、肥前佐賀の龍造寺隆信が勢力拡大。そのうちぶつかる。
  • 島津四兄弟の九州統一戦 (星海社新書)を読んで印象的だった「取次」。家久が有馬鎮貴(しずたか、有馬晴信)が島津氏に従属するのを取り次いだので、有馬鎮貴を救援する責務が生じる。いろいろあって、有馬氏へ島津氏が軍事支援することに。家久豊久親子や、よく講座で名前を聞く新納忠元、高城守ってた山田有信などが島原半島へ。
  • 「取次」のこの感覚は最近イメージできるようになった。しかしながら、太守(義久)がいて、間接統治の領主(家久)がいて、各々が責任をもって取次なりなんなりしたら、島津家全体として不整合がでるのは必然なので、この統治方法は発展途上(もしくは制度の欠陥)なのだろう。結果として、整合性(各人の面子)を保つために、各人がコソコソ動いたり、最終調整で鬮による神様の意思決定が必須なんだろう。
  • 阿蘇大宮司家の重心甲斐宗運との和睦交渉が「日向国美々津」。甲斐宗運は五ヶ瀬町あたり、家久側は佐土原でちょうど間くらいになるのかな?
  • 次回講座は「沖田畷の戦い」あたりからスタート。
  • 中書=中務少輔=家久、兵庫頭=忠平=後の義弘、とかやっと感覚的に読み取れるようになってきた。
  • やっぱ意思決定は談合とか鬮(くじ)だよねぇと再確認した。
  • 島津家の(体外的)面子の重要性を再確認を再確認した。
  • 取次の位置付けと責任問題を再確認した。
  • 拠点間の情報伝達、意思決定、現場の各タイムラグを再認識。

参考情報

     

ん、「日向国山東河南の攻防」持ってなかった(汗)ポチッと!論文集面白そうだが、島津貴久の本すらまだ読んでないからその後かなぁ(汗)島津貴久の本は、聞き慣れない単語が多く頭に入らなさすぎて、途中でノックダウンKOをくらったが、そろそろとりあえず最後まで読めるのではなかろうか。

コレ読めばいいんじゃね?

宮崎県立図書館で「島津家久」での検索結果ででてくる「宮崎県文化講座研究紀要第44輯(平成29年度)」の新名先生の「島津家久・豊久父子と日向国」で詳細が述べられているので面白し。