続「上井覚兼日記」を読もう講座 第6回参加|最終回

上井覚兼日記講座第6回
上井覚兼日記講座第6回

みなさんこんにちは。昨日は生目の杜運動公園でコブクロの20周年コンサートが開催されたとTLがざわざわしてました。ニシタチはさぞ賑やかだったことでしょう。ありがたいことです。

なにわともあれ昨日から今日も宮崎市内かなり暑かったですね・・・

講座最終回は、コンサートと同日9月16日開催される予定だったのですが、講座が開催される「生目の杜遊古館」はその「生目の杜運動公園」のすぐ近くにあり、大混雑が予想されるため、本日2018年9月17日に変更となり、本日参加してきたヨネです。皆さんいかがお過ごしでしょうか?

いやいよ最終回です。今までのシーズンに参加したことなかったのですが、今回のシーズンは6回のフルの出席となりました。当時の戦国時代の雰囲気、当時の宮崎県鹿児島県を始め九州各地の雰囲気が常に感じ取られる有意義な時間でした。

本日でてきた景清廟なんかも行ったことなく、宮崎県内でも行ったことのない史跡がまだまだまだまだあるもんだと感じたところです。時間を見つけたらあったらぼちぼち回ってみたいものです^^ ほんのここ最近嫁の影響で日本史に興味を持ち始めたのですが、その前から漫画で読んでいた「センゴク」がいよいよ日記に登場して親近感が倍増でした^^

天正14年(1586年)8月9月10月の整理や雑感

  • 前回上井覚兼勢は岩屋城を攻め落とした。今回8月9月10月は自身もケガを負って前線から退いて宮崎にもどり、なんやかんやあって豊後攻めに出陣するとこまで。
  • 講座の解説は8月9月がメインで、10月は日々談合やら出陣準備やら10月は節目が少なくざざっと飛ばされた。
  • 最後とは聞いていたのですが、具体的にこの天正14年10月が残っている日記の本当の最後のようだ。この後の日記を持っている人は名乗り出てきてほしいものです(笑)
  • いよいよ九州に秀吉の足音日に日に近づいている時期で、日記以外の豊臣勢の動きが資料として準備されていて、全局的な雰囲気がわかって楽しかった。
  • 日記の登場人物が後々どんなエピソードがあるなどが、日本史入門者としてはすごく面白い。
  • 全体的にやはりお酒は飲んでいる。
  • 8月4日から7日くらいまで、傷の見舞いにいろんな人が来たり、使者が来たりしたようだ。武庫殿(島津義弘)は直接見舞いに来たり、恵云なる医者を治療で連れてきてくれている。こういったことが、義弘の人気につながっているのではないかとあった。個人的には、総大将(ナンバー2かもだが)であれば見舞いではなく他にやるべきことがあるんじゃないかとよぎったが、直接お見舞いするのは人間同士のリーダーとして大切なのだろう。上井覚兼を重宝していた現れもあるだろう。
  • 8月8日。豊後攻め関係の提案をしているようだ。義久ももっともだみたいな感じ?現代語訳読んでも読解力がないため不明(笑)
  • 8月10日。許三官なる島津義久の侍医が治療にきてくれている。明国出身で倭寇に捕まり薩摩にいたようだ。ぐぐったら許儀後ともいうようだ。朝鮮出兵関連で逸話があるようだ。
  • 8月11日。豊後攻めに関して、義久は侵攻が成功しても統治の難しさを危惧しているが、覚兼は勝てればいいみたいな感じ。囲碁も嗜むのだろうが、弱かったのかもしれない(笑)
  • 豊後攻めに関しては、義久は消極的なことにたいして、談合衆が積極的なところが延々と続く(笑)意思決定の手続きの難しさだ。民主的な政治(談合?)の良さがいままであったのだろうが、義久の客観的な冷静な判断がうまく現場に理解してもらえない。大将は現場を知らんし、くらいに家臣は考えていたのだろうか。とか、クジ(鬮)で豊後攻めが出ているので、鬮を尊重している面が続いているのかもしれない。
  • 8月17日。武庫様(後の島津義弘)が備後の公方様(足利義昭)から御時(偏諱=義)を賜って義弥(ヨシマサ、ヨシタカ?)に名乗るよって使者がきた。名前が変わったら通知するようだ。
  • 8月18日。秀吉に下っている、長宗我部元親から大船を贈りたいとの申し出があったとかの連絡。島津を油断させるためとか?秀吉の失墜を期待してか?タダほど高いものはないと言うが・・・当時、意思疎通を図るための贈与は一般的だったのか(?)
  • 8月19日。島津四兄弟が八代に揃ったようだ。
  • 8月22日。「針を伏せる」とは呪いをかける事とのこと。
  • 8月23日。「月待ち」。ぐぐったら「仲間が集まって念仏を唱え、飲食をともにしながら月の出を待つ行事」とか。寝ないでいるようだ。で、地頭伊津野氏がこの近隣で囲碁が強いとかで、碁盤と石をもってきていろいろ打ったようだ。この頃の囲碁の棋譜の概念はあったのだろうか、日本棋院の奥にありそうな。
  • 8月24日。立花城(福岡県?)の状況。もう立花城は秀吉の軍門に下っているのが明らかに。
  • 8月27日。甑島殿(小川有季)とある。甑島を収めている家臣か。
  • 8月28日。義久の意向が使者から覚兼に届いた。内容は、「武庫(義弥、義弘)に家督譲るの決定したけど、自分の前じゃないと決定し難いと武庫が考えているなら、決定が遅れてしまう。御誓を書いて家督継承に変更が無いことを伝えたいと考えているけどどうか?」みたいな。義久と義弘の兄弟間で腹を割って意思疎通できる環境じゃないのが面白い。しかも、散々、自分(義久)の我を出して、武庫殿が意思決定し辛い状況を作っている意識がないのだろうか。罪悪感があっても、島津家のために良かれと思って言ってしまうのだろうか。
  • 8月29日。碁を打ってた記述があるようだ。
  • 8月30日。重鎮で談合。筑紫広門が籠城した件とか、豊後攻めについてとかかな。御両殿(義久と義弥)は同座にて聞いていたってあるけど、物は申さないのかな(?)偉い人がいたら、柔軟な意見が言い辛いな・・・
  • 9月1日。この日の日記長文。終日談合。金吾公(歳久)、中書公(家久)、典厩公(征久・以久)と昨日の衆とか、島津家オールキャストって感じ。捕まえた筑紫広門を処刑せず、移送もせず、逃げたってことが曲事だと義久が言うのは至極真っ当。前線は緊張感がなかったのだろうか?コミニケーションの流れが破綻してたのだろうか?前線のバラバラ感がでている。
  • 9月2日。この日の日記長文。談合。
  • 9月3日。談合。日記短し、論点がないのか。
  • 9月4日。義久の上意として、前に出てきたような話が重複して書いてある。
  • 9月5日。談合。豪華のメンツそう。酒宴もあり。
  • 9月6日。談合。結論がでないから鬮にて決めるよう義久が命じたようだ。夜は酒宴。
  • 9月7日。鬮の引き方決定。一で豊後へ出陣、二で出陣延期、白なら処方面で軍事行動検討。
  • 9月8日。長文。能とか狂言とか。
  • 9月10日。宮崎の祭礼のためにお暇くださいみたいな。okでて出立。談合も煮詰まり鬮になったし、宮崎へ帰ろうかなぁみたいな感じだろうか。
  • 9月15日。奈古八幡の祭礼へ。奈古神社のホームページみてみたら、毎年9月15日に大祭しているとか!ずっとやってるんだすげっ。てか、日記は旧暦ぽいから、旧暦から新暦に変わっても9月15日にしてるってことなんでしょうね。
  • 9月16日。瓜生野八幡の祭礼へ。本庄八幡の神事は代参してもらった。
  • 9月17日。長文。鬮の結果出陣との又聞きで知ったようだ。越(越網猟)行って、12、3仕留めた。ということで、最近テレビ見ないからわからないが、むかーし子供の頃ニュースで、カモが夕方と家に戻るところに、網を上にばーんって上げて引っ掛けて取るのを見たことがあるが、あれぽいようだ。ずっと昔からやってるんだね。四国の兵がぶんごに渡ったと情報有り。京衆(豊臣勢)から島津家中に調略を受けている人が多数いるとの情報有り。
  • 9月19日。家久から出陣の時期の質問とか平戸に南蛮船が到着したので手火矢の玉薬を確保するため人を派遣するけど、おまえも必要なら人連れてったらみたいな事で使者がきた。平戸と交流をもっているとか。天正3年(1575年)の約10年前に家久君上京日記で京へ行って帰ってくるまでの日記で、平戸に寄って帰ってきているようなので、取引先とか情報網とかを整えていたんか。この家久の日記で信長の行列みた記述はワクワクしたのと祖父母がいた浜田に1週間もなんでいたのかあとで調べてみようと思っていたのを思い出した。
  • あとなんやかんやあったようだ(笑)
  • 9月28日。懸(延岡、土持久綱)からの書状で、千石権兵衛(仙石秀久)が四国から豊後に渡海したり、豊後衆(大友勢)が宇目に到着したりで、もしもの時は援軍をお願いしますとのこと。漫画で読んだことがあるセンゴクが登場。ワクワク。
  • あとなんやかんや出陣の準備とか。
  • 10月7日。又七殿(島津忠豊、豊久、家久の子)が越(越網猟)に宮崎に(佐土原から?)きたようだ。酒飲んだり猟をしたり。出陣前に酒の量が増えるのはなんとなくわかる。猟に行くのは、合戦でのチームワークを発揮するための習慣なのだろうか。
  • 10月8日。長文。平景清の石塔に島津忠豊を連れていったようだ。これは景清廟のことのようだ。千石権兵衛が高崎辺りで兵200、長宗我部元親が丹生島(臼杵城)に兵200。兵具などしっかり付けず、商人のような様子とか。偵察?油断させるため?走ってきた?
  • 10月9日。長文。矢合わせは、「木性」の人がいいだろう。とかいう話が出てきていて面白い。まったく易とかわからんけど、五行易の木にあたる人に矢を打たせるという意味とのこと。「”柴”のため」とか10月10日「”柴”が過ぎてから」とか「柴」って何なんだろう?ググっても出てこない。今後要調査。
  • 10月10日。長文。千石権兵衛が豊前の時枝で中国州(毛利勢)と合流するとか。黒田官兵衛(孝高)もいるとか。ということで、日記に初心者の私でも知っている、黒田官兵衛登場。
  • その後なんやかんや(笑)
  • 10月13日。木性の矢合わせの人物が決まったようだ。1553年生まれは、癸丑で木になるとか。へー。五行易も時間が有り余っていたら奥が深そうだ。ちなみに、自分も生まれから当てはめていたら木性でした(笑)
  • 10月15日。看経して、いつもの様子で出陣。日記最終日でシンプルな一文。
  • 顔に怪我してでも日記書いていたのに、このあとも日記は書いたであろうとの新名先生の推察。確かに書いていたんだろうなぁ。
  • その後は、羽柴秀長に敗れ、表舞台からは降りて伊集院地頭となったとな。ググってみたら天正17年って日記最後の3年後には亡くなっているとか。その前に家久も亡くなっているとか。えええ二人とも若いのに・・・何かトラブったのか(?)
  • この日記の頃は、徳川家康がまだ秀吉の正式な家臣になっていないようで、九州に出向くことができなかったようだ。その後、その年の10月27日に秀吉に謁見して臣従することを対外的に表明したとか。

芎帰膠艾湯(キュウキキョウガイトウ)

天正14年(1586年)8月2日に芎帰湯を服用している。今もあるとのことでググってみところ、芎帰膠艾湯(キュウキキョウガイトウ)がでてきた。芎帰膠艾は川芎(センキュウ)の芎、当帰(トウキ)の帰、阿膠(アキョウ)の膠、艾葉(ガイヨウ)の艾の、成分の一字を取っているようだ。

出血とか痔とかに効果がありそう。上井覚兼はケガしている痔病持ちなのでピッタリそうだ(笑)

景清廟

名前は聞いたことあったがちゃんと調べたことなし。いつか調べてみたい。2018年10月14日景清フェスタがあるとの告知あり。駐車場があまりないので公共交通機関をご利用くださいとのこと(^o^)

第二回景清フェスタ
第二回景清フェスタ

旧暦から新暦へ

いつ旧暦から新暦へ変わったかすら知らないド素人なのでググってみました。明治六年(1873年)に新歴がスタートしたんですね。

googleブックスで「日本の歴」という書籍をチラ見してみました(笑)

漫画センゴク

普通に漫画として、宮下英樹氏の「センゴク」「センゴク天正記」「センゴク一統記」までは読んだが。現在の「センゴク権兵衛」はまだ全く読んでいないところ。後が気になるので、完結したら読もうと思っていた。が、新名先生によると「センゴク権兵衛」の9巻10巻11巻で九州編が完結しているようだ。11巻までとりあえず読もうかな。一統記の最後あたりは、長宗我部元親が四国統一したり、権兵衛が四国に上陸したばかりだっただろうか。

まっ、兎にも角にも漫画「センゴク権兵衛」が楽しみだ。下の表紙の人物は島津家久とのこと。

あとがき

あっという間の半年の講座が終了。とても面白かったです。なんといっても、出てくる地名や神社とかが、現代で普段見聞きしている場所だから地理的にもすんなり頭に入ってくるし、ここでこんなことがあったのだと親近感もかなり高くて楽しいものでした。新名先生ありがとうございました&お疲れ様でしたm(_ _)m

今回のファイナルシリーズが上井覚兼日記講座初めてだったが、過去まったく出てないので、また同じ講座やってくれないかなぁ~ と期待しているヨネでした(^o^;) アディオス(^_^)/~